カーブスエッセイ大賞2017結果発表

作品詳細

佳作

「カーブスとロボット介護」

桜子様(74歳) カーブスアル・プラザ彦根(カーブス歴:1年9カ月)


 今、高齢で一人暮らしをしていた姑を介護することになりました。そのお陰で成長した私を述べたいと思います。
私の夫は亡くなって十五年になります。厳しく恐かった夫です。その人を育てた親で、そっくり厳しいです。そもそも住み込み介護をするようになったのは、手を骨接したからです。三ヶ月かかり完治したので自宅に帰ろうとした時「年だからこのまま居てほしい」と言われました。その時は、まとまった自由な時間がとれず、カーブスを休みました。その後、久し振りに行った時カーブスの良さが判りました。久し振りに行ったからこそ比べる事が出来ました。一緒に居ると嫁姑の間柄、いやみのひとつも言いたくなる、ところがカーブスに行って身体を動かし、汗をかき、すっきりして帰るという、この繰り返しをしていると、姑に対する私の態度がみみっちく思えてきました。この介護っていつまで続くんだろう。
身体を動かすと心が柔軟になり何事も受け入れやすくなる、この関係って鶏が先か卵が先かの関係に似ている。私は若い頃、お金のない人は自宅で、ある人はそれなりの施設に入るものだと思っていました。でも、それは違っていました。お金は関係なかった。自分の身の廻りの物に囲まれ、信頼出来る人に面倒をみてもらう、これが理想的な老の過し方だったのです。戦前生れの私は、姑には口答えしない、男性や目上の人には立てつかないという時代と環境の中で育ちました。私の立場から嫁は我慢する、娘は我慢しない、そこで介護は嫁にと、私に白羽の矢が立ちました。姑は頭脳明晰、内臓は年相応で異状なし、病気をしたことがなく、入院はお産の時のみ、そこでお医者様にお尋ねした「介護していて急変が恐いのですが」と。「このおばあさん急変はないでしょう」とのことでひと安心。ところが初めて熱が出ました。私は、毎日寝かしつける時、両手で軽くほほを挟み「お休みじゃあ又、明日」と。ある晩あつい!熱があるどうしよう。ともかく額に熱冷まシートを貼り、朝が来るのを待ちました。結果は尿路感染。早く気が付き良かった。元気な姑はきっと身体に秘密がある筈と思い、先生に聞いてみました。すると、私と姑の胸のレントゲン写真を比べて、説明して下さった、姑は胸の中心を通っている動脈の太さが、なんと、私の2倍ある。おー、びっくり。血管が太い、信じられない!だからでしょうか、手に力がある、杖を持つ手が力強すぎて親指の付け根に青たんが出来ている。眼鏡、補聴器、入れ歯と借り物ですが、それぞれ立派にお役に立っている。食べる量も私も全く同じ。でも臭覚はだめ、全く臭わない。いつから?と聞くと「十年位前かなあ」という。介護はうんちとの戦いです。でも臭わないから事の重大さが判ってもらえない。
ところで去年の暮、二人で年賀状を書いていました「お母さん、(兄弟の宛名書の時)私の旧性っていつまで書けるのかなあ」と言うと「へーそんな事考えたことないわ」と。私はびっくりして顔を見てしまった。姑は知識は充分にありますが、知性と情緒に欠けているように思います。単純な頭の良し悪し以前に、心の柔軟性がほしいと思います。他人を理解する心の習慣があればもっと魅力的な姑になるでしょう。姑は嫁いで来て、多忙だったのでしょう。それにテレビも無い時代です。はやりの歌や、歌手、俳優さん達を全く知りません。知りたくない人なんです。関心のあるのは、俳句、歴史物、お金の計算、本や新聞などの読み物などです。芸能好きの私とは話が合いません。合えば楽しいのになあ、だって、二人ですることは何もないもの。私からみればロボット。歯が立たない、でもこの金属もどきのロボットさん、いい時もあります。いやみを言っても通じないから。
だからつまらない、楽しくない。でもデイサービスに行くと「お手玉」だとか、「すごい」とかみなさんに言ってもらっている。本人は淋しいとか死について話すことはありません。未だに貯金をしている「年をとったら何に要るか分からないので」と。私からみれば充分に年をとっている。本人にとって年寄りとはいくつからなのだろう。ちょっといじめたくなる。でも聞くこともなく介護中、年寄りいじめは止めよう、真面目に介護している自分をぶち壊すことは止めよう、愛することは出きますが情をかけることは難しい。姑は若者のように頭が冴えて元気ですが、身体が思う様に動かないのでいらいらして私を怒る。人の感情を持った小さなロボット、単に身体が小さいだけでなく、立ち位置が狭まり、人との連がりが狭まり、視野も狭くなる。そして眼も小さくなり、しじみ程の大きさ、気合いを入れて見開いた時は、あさり大の眼、その時は、補聴器をした耳が奮い立つ、聞く気が無ければスルー。病院や、デイサービス等お出掛けの時は、着る物とお化粧に余念がない。介護って生産性がない。姑が床に着いて一人になると、これでいいのだろうかと空しくなる。100才近くにもなれば、自分が操ってきた身体に操られているように思う。長年築き上げた身体に、つき動かされているようにも思う。強い意志を持ち、感情的にならない、利害関係を重んじる、無駄がない、機械化されている、など、システム化され安定している。もう少し若ければ一緒にカーブスに行くのに、カーブスに行けば心身が鍛えられる。心の健康って自分と対話して、折合をつけることではないでしょうか。身体を動かした後のカラッとした心はメンタルの強さに繋がっている気がします。ドライで合理的な判断は、私の介護に生きてきています。介護は身体でもってしていますが実は心でしています。カーブスで身体を造り、数年後は自分で造った身体に助けられ過していくという、とても良いサイクルに入るような気がします。今では姑に、元気な自分に挑戦してほしい。神様に頂いた命を100%使い切って旅立ってほしい。そのお手伝をしている自分を好きでいたい。
 姑にカンパイ!

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